ゲシュタルト療法のエッセンス



出来なくてもいいけど、出来たらうれしいじゃないですか♪
欠点や足りないところに、こだわりすぎずに、
全体も見渡して、良いところを見つけていきましょう♪


 「今 ここで 私は 」の心理カウンセリング
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●ゲシュタルト占星術

ゲシュタルト…って、時折、単語だけは、
ドラマ・物語などの、タイトルやフレーズで、
耳にする事も、あるかもですが、
一般的には、聞きなれない言葉かも知れません。

来談者中心療法や、論理療法のように、
和訳にもなって、いませんから、
ご存じない方は、ゲシュタルト療法とだけ聞いても、
さ〜っぱり、ピンと来ない事と思います。

ちょっと、一言で説明するのは、難しいのですが、
あえて言うと…

物事の全体を、把握して、
その中で、焦点を当てる部分を、
自由に切り替えて、いけるようにして行く考え方。

…を、出来るようにする・活用する療法。
とでも、言ったところでしょうか。

やっぱり、これだと、まだちょっとピンと来ないですね?(笑)
カウンセリングに関する、すべての記述は、
私、ゆきみが学んだ範囲の事を、
私の言葉で、お話しています。

心理カウンセリングに関する、内容・手法・考えが、
他のカウンセラー・療法家の方と、
まったく同じと言うわけでも、ないとは思います。

その辺はどうか、考慮されて読まれて下さい。

「ゲシュタルト」と言うのは、
形、形態、姿、状態、現象、統合された形、
などの意味になる、ドイツ語です。

ただピッタリに訳せる、適当な言葉が見つけにくく、
日本はもとより、ゲシュタルトはそのままゲシュタルト…と、
ほとんどの場合、呼ばれているようです。


まず、さまざまな部分、要素があって、
統合されて、全体が作られる。
部分の集合は全体であり、全体は部分の集合である。
ただ全体は、単なる個や部分の集合では無く、
部分の集合によって、それ以上の意味になる。
全体性や、構造こそ大切。
と、やっぱり、こう言ってしまうと、
いたって、当たり前のようなお話しが、
でも、ゲシュタルト心理学です。

そしてこの、ゲシュタルト心理学と、
精神分析療法を、背景に組み合わせて、
フリッツ・パールズ博士と言う人が、創始者として、
始めたのが、ゲシュタルト療法です。









この、
「部分が集まった、集合には、
 単なる部分の、足し算以上の意味〜何かがある」
(1+1は、単なる2では無く、
 2以上の意味・物・概念になる。)
と言うのは、改まって考えると、
心理学に留まらずに、中々哲学的です。

この事は「人の心とは何なのか?」
(もし人間の意識が、複雑でも科学的に説明のつく、
 物質や電気信号の、集合体に過ぎないなら、
 私を私だと思う、気持ちや心、
 いわゆるクオリアは、どうなるのか?)
に、つながるように思うからです。

固定観念から、脱却すると言う意味では、
ゲシュタルトも論理療法と同じ、ある種それ以上ですが、
ゲシュタルトでは、論理・非論理ではなく、
全体の統合・全体性と、部分の視点に注目し、
一つだけの部分、一つだけの見方に、固執するのではなく、
全体を意識して、自由に視点を当てる部分を変えて、
柔軟な発想にして行く事や、それによって健全で豊かな、
私らしい私になれる事を、目指すのだと思います。

ゲシュタルトで、よく例に出されるのが、
「ルビンの杯・ルヴィンの壺」と言う絵です。

たぶん図を見れば、どなたでも一度くらいは、
目にした事が、あると思うのですが、
その絵は、中央に焦点を当てれば杯に、
両側に焦点を当てれば、向かい合う人物に見えます。


あるいは顔の見えない、後ろ向きの女性の絵で、
「若い女性に見えるか?年配の女性に見えるか?」
何て言うのを、どこかで見たりやったりした事が、
あるんじゃないかと思います。

なんとなーく、
「そう言えばなんか、そういうの、
 聞いた事があったような…?」

って感じに、思えてきたでしょうか?

左は、HPビルダーの中にあったイラストです。
手前のやしの木に、焦点を当てれば、
夕日は、背景になります。
でも、夕日の方を描いた、イラストと考えれば、
逆に手前のやしの木は、近景になります。

やしの木の好きな人(?)なら、
「やしの木の絵だ」と、思うかもしれませんし、
夕日が好きな人なら

「夕日の絵だ」
と、思うかもしれません。

でも本当なら、まず絵、全体があり、
夕日もあり、やしの木もあり、更に他の部分もあり…
色々把握したり、色々な見方が出来るわけで、
その上で
「私は、夕日が好きだ。」
「私なら、やしの木の絵に見えます。」

と、これなら、いいわけです。

でも
「どう考えても、夕日にしか思えないよ。」
「誰が見たって、やしの木だ。
 夕日に見えるなんて、お前がおかしい。」

これだとちょっと困るし、ケンカになっちゃいますよね?

これはもちろん、絵での例えですが、
同じような、認知の偏りや、極端化、
マイナスばかりに、思考が行く…なんて事が、
日常でも起こっていたら、生き難さやストレスに、
つながってしまいます。

こんな感じで、対象について、
色々な物の見方、考え方が出来るはずで、
成熟した健全な、人格の持ち主なら、
自由にそれらの、視点を切り替えたり、
統合された全体を、意識する事が出来るはず。
そうすれば、一つの悩みに、
とらわれすぎる事も、無いでしょう…と言うようなのが、
ゲシュタルトの基本的な、考え方と思います。

悩んでいる人や未成熟、不健全な状態にある人は、
特定の部分だけが、気になってしまったり、
全体の視点で見る事が、出来なかったり、
より悪いところ、足りていない部分にばかり、
目が行ってしまうと、考えます。

●恋人の足らない部分ばかりが、気になってしまう人。
●仕事の失敗したケースばかりが、気になってしまう人。
●子供の出来ない事ばかりを、見つけてしかるお母さん。
●部下の悪いところばかりに、文句を言う上司。
●先行きの悪い未来ばかりが、気になってしまう人。


単純に、マイナス思考と言えば、
まさにマイナス思考と言う事に、なるのかも知れませんが、
こう言う色々な部分、色々な考え方があって、
出来る全体や、プラスの部分は見渡せずに、
(見ても、手につかずに)
悪い部品、悪く転がるケースばかりが、
目につき、気になって、とらわれてしまう…。

これをゲシュタルトでは、全体の構成(ゲシュタルトです)が、
出来ていないから、こうなってしまうのであり、
全体の視野を持ち、視点を自由に、
切り替えていけるように、しようと考えます。

自立している人は、この全体の構成(ゲシュタルト)が、
出来ている、さらに自由自在に作れる♪
…と考えるわけです。

本音と建前が裏腹な人。
嫌な事を正直に、嫌と言えず(認められず)、
主語が曖昧だったり、自分と他人が曖昧だったり、
さらには自分が今、嫌なのか良いのかすら、
段々、わからなくなって、きてしまう。

一つの事ばかりが、気になって目に入り、
こだわり、忘れられなくなり、
他の事や、全体の視点は、持てなくなってしまう…
こう言う人は、ゲシュタルトが作れていない、
と考えるわけです。
今ここに・今ここで

ゲシュタルトでは

「今、ここに」「今、ここで」
を大切にして、
「現在形」で考えます。

また自分の喜怒哀楽、感情を表す事を否定せず、
それを
「私は楽しい」「私は悲しい。」と、
「一人称」で考えます。

「彼が悪い。」「彼のせいだ。」ではなく、
「彼の言葉により、私は悲しい思いをしている。」
ですね。

全体の視点や、他の視点も持てた上で、
「今、ここで、私は、こう思っているんです。」
と、自分で自分を、把握・自覚しようと、考えるわけです。

まだ、子供とかだと
「○○ちゃん、怒ってるんでしょう?」
と言われると、意地からムキになって
「うるさい!怒ってなんかいないって、言ってんだろう!」
と言ったりしますが、
これを本気で思っていたら、怒っている自分を、
自分で、自覚できていない事に、なっちゃうわけです。

例えば、お酒を飲んで、酔う事自体は、
別に、かまわないわけです。
「ん〜、これ以上は、酔いがまわりそうだな。
 ありがとう。そろそろ、失礼するよ。」

で、ちゃんと帰れるのなら、何の問題もありません。
これなら困りません。

「俺は酔ってなんか…。うう。(どたっ)
 うるさい、大丈夫だって…言ってんのが…
(おえっ☆)
 てめえは…わかんねえの…
(がちゃーん!)
 次だ、まだこのぐらい、どって事ねえ!
 さあ…おえ…次の店行くぞ!
(どて・ぽき・ぐしゃ…)
こっちが困るわけです。


だから、国会中継なんかで、たま〜に聞く
「これは大変、遺憾な結果であると〜〜
 言わざるを、得ないと言う人が〜〜
 いないとは、限らない場合について〜〜
 充分な理解を、得られるかと言えば〜〜」

みたいな、

いかにも
「いや、実はこれは、
 私が言いたくて、言ってるんじゃなくてね!
 みんなが言え言えって、言うもんだからさ!
 私は本当は、言いたくはないんですよ!
 いやホント! 
 もう、しょうがなくて、言ってるだけでね!
 私が言いたくて、言ってんじゃないんですから!」

的な、
自分の意思で、言ってるのではない
=みんなが言わせた!とか、
責任回避目的で、主体性を欠くなら、
あんまりゲシュタルトじゃないと、言う事になります。

こうしてゲシュタルトでは、現在形の喜怒哀楽や、
感情表現を、積極的に肯定して、
言語になった、バーバル・コミュニケーション以上に、
言語にならない、ノンバーバル・コミュニケーションを、
重視します。
(心と体がつながっている、心は体に現われる。と考えます。)
で、ゲシュタルト療法は行動的で、
いわゆるワーク、エクササイズ、技法がたくさんあります。

ロールプレイ(役割交換法、役割演技、サイコドラマ)
関係だけでもいくつもありますし、他にも
ホットシート。
未完の行為。
トップ・アンダー・ドッグ。
エンプティー・チェア。
同じ言葉を何度も繰り返す。
身体言語を誇張する。
わざと発言の内容と正反対のことを言う。
ジェスチャーに言葉を合わせる、
あるいは言葉にジェスチャーをつける。

など、実際にやると、一つ一つは中々アクティブですし、
中には自分と向き合ったり、自分自身との、
一種の対決のような形を、取る物もあります。

だからゲシュタルトは、本格的にやっていくと、
精神神経科や治療の領域に、かなり近くなる印象ですが、
その考え方部分では、本当にちょっとした、
日常、普通の人間関係に、
活かせる部分が、たくさんあります。

こうしてゲシュタルトでは、
行き過ぎた完全主義や、減点主義、
一つにとらわれる、考え方から脱却して、
柔軟で全体を見渡せ、プラス思考にして行く事によって、
悩みやストレスから、脱却しようとしていきます。


ゲシュタルト療法とは、ハートランド的には
欠点や、足りないところに、こだわりすぎずに、
全体を見渡して、良いところを見つけていこうよ♪

と言うところですね。
ゲシュタルト占星術

論理療法のところで、占いだと当たり前のように

「牡羊座と蟹座は、相性最悪。
 火と水だから、上手く行きません。
 あきらめましょう。」

なんて言われて、終わってしまう事が多々…
と言う、お話しをしました。

でもこれを、論理療法の立場で考えれば、
牡羊座と蟹座は、
単に
「性質が違う」だけと言う事になります。
別に取り立てて、悲観するような事でも、
感情移入する事でも、無いんです。

さらにこの、牡羊座と蟹座だと性質が違う、と言う点は、
ゲシュタルトならむしろ、まったく違う特技や長所をもって、
カバーしあえる組み合わせ♪と言う事にもなります。
さながら、ゲシュタルト占星術とでも、言うところでしょう。

一方価値観や、性質のあわないところは
「あわなくて当たり前。
 あわなければいけない!と言うわけでは無いのだから、
 気にしなければ良い。」

と言う風にも、考えられるわけです。

あわないところを、探し始めたら、
人間、キリがありません。

でも、結構、人間と言うのは
「あわないから嫌い」と思い込んでいても、
実は反対に
「嫌いだから、あわないところが、
 より気になって、意識していた」

と言う事が、多々あります。

上手くいってる、カップルさん同士だからと言って、
別に1から10まで、そっくり似た者カップルばかり…
と言う事も、ありません。
好きだからこそ、同じ部分は嬉しく、
違う部分は、惹かれるわけです。


あう、あわないは、純粋な客観論。
あくまでも結論ではなく、問題はそれをどう考えるか?

ゲシュタルト占星術なら、そんな風に考えるわけです。



例えば、
「天中殺だから、新しい事を始めてはいけない。」
なども同じです。

ハートランドの考え方では、
(もし、その占いを、信頼したとしても)
原則的に、占いでわかるのは原因であり、
確率の形の、客観情報です。

占いの見立てが、正しかったとしても、
言えるのは、
「今始めると、上手く行かない可能性が高い。」
であって、
それを理解した上で、
「始めるか?始めないか?」
「始めたほうが良いか?やめたほうが良いか?」

の判断は、
クライアントさんにあって、良いと思います。


「上手く行かない確率が、きわめて高い。」
と、わかった上でも、
クライアントさんにとっては、
挑戦して見たいと言う、気持ちや行動の方が、
大切な事は、しばしばあります。

「結果を聞きたいだけ」だった場合に、
その気持ちを、無視してまで、
「やめなさい!」と言うのは、
何かよほど、例外的なケースで無い限り、
クライアントさんにとっては、余計なお世話でしょう。

「男なら 危険を顧みず、
 死ぬと、わかっていても、
 行動しなければ、ならない時がある。
 
 負けると、わかっていても、
 戦わなければ、ならない時が…。」

って、ハーロックも言っています。