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なるほど、そんな事を、言われちゃったんですね。
それじゃあ、ショックですよね。
ただその悩みや、言われた批難って、本当に事実でしょうか?
ちょっと落ち着いて、まずは客観論で考えると、どうでしょう?
「ABC理論 ビリーフ それは事実ですか?」の心理カウンセリング |
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例えば…
●彼とデートの休日、朝起きたら大雨が降っていた。
●携帯がつながらないので予定通り、屋外で…
●傘を差して待ち合わせていたら、彼は10分遅刻。
●おまけにその時、張り切って着て行った、
新しい服に、彼は全然気がついてくれなかった。
どうでしょう? |
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カウンセリングに関する、すべての記述は、
私、ゆきみが学んだ範囲の事を、
私の言葉で、お話しています。
心理カウンセリングに関する、内容・手法・考えが、
他のカウンセラー・療法家の方と、
まったく同じと言うわけでも、ないとは思います。
その辺はどうか、考慮されて読まれて下さい。
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論理療法は、アメリカではフロイト、ロジャースなどと並ぶ、
アルバート・エリスという人が創始者で、
ロバート・ハーパーさんらが、提唱した療法です。
論理療法の特徴・物の見方・考え方は、一言で言えば、
まず名称通り「論理で割り切る」と言う事でしょう。
「何でいまさら、そんな事を…?」と、
思われるかも、しれませんが、
実は改まって考えて見ると、悩みのほとんどと言うのは、
必ずしも事実や、論理的な物ではなく、
悩んでいる本人の、思い込みや、
受け取り方による物に、他なりません。
悩みの原因が、誤った思い込みや、
認知、見方による物だとしたら?
まずは物事を、論理で割り切り、
事実と論理的思考で、考える事によって、
悩みの解決に、つなげようとする物…
そんな発想が、論理療法です。 |
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他人事だと
「そんな事で悩んでいたって、しょうがないじゃない?
なんでそんな事が、そこまで気になるの?」
と、
冷静に見れても、
言われた本人の、立場になると、
「そんな事、言われたって…」
と、なってしまうのは、
誰でも多かれ少なかれ、ある事だと思います。 |
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冒頭の文です。
朝起きて、カーテンを開けた時に、
雨がざーざー降ってたら、なんとなくイヤですよね?
でも、ちょっと待って下さい。
何で、雨が降ったら、
嫌な気分にならなきゃ、いけないんでしょう?
雨が降ったと言う、事実と、
嫌な気分に、ならなきゃいけない事との間には、
本当に事実に基づく、因果関係があるんでしょうか?
携帯がつながらない、彼が遅刻した…。
これらは“あなただったら”
「絶対に許せない事」でしょうか?
でももしも“この彼は”休日の、この時間帯は、
いつも携帯からは、離れていて、
つながらないのが、当たり前だったら?
つながらなくて、当たり前と知っていれば、
それで特別、腹は立たないかも知れません。
もしもこの彼は、時間にルーズで、
待ち合わせといえば、30分待ちは当たり前の、
遅刻の常習犯だったら?
「え? どうせ待たされると、思って、
いつものように、一休みしながら、
文庫本を、読み始めたら、
今日は10分しか、遅れないで来てくれた…!?」
むしろ、嬉しくなるかも知れません。
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あるいは逆に、
時間に正確な彼が、遅れているので、
怒るどころか、心配していたら、
一足早く来て、待っていた彼が、
いつもなら同じく、5分前には来ているはずの、
あなたが今日は、まだなので、
気をきかせたつもりで、バス停を見に行って、
行き違って、いたのだとしたら?
色んなパターンが、考えられます。
そのそれぞれで、
「私なら怒るだろうか?」
「この場合なら腹が立つだろうか?」
と、
考えてみるのも、おもしろいです。 |
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雨も携帯も、待ち合わせも、
それ自体が、絶対的な物ではありません。
その事実を受け取る側が、どう受け取るかで変わって来ます。
だから同じ10分の遅刻でも
「いつも時間に正確なら心配。」
「いつもそれ以上の遅刻が当たり前なら、
それほど気にならない。」
「ただの寝坊ならカチンとくる。」
「急な発熱なら仕方ない。」
などと、なります。
「そりゃあ、一言で10分の遅刻と、言ったって、
何で遅れたのか?
事情や理由で、気持ちはかわりますよー…」
そうでしょう。
事情で気持ちは、いくらでも変わります。
それなら「10分の遅刻=事実自体」は、
絶対的な物では、無いと言う事になります。
論理療法では、悩みの元になっている、
こう言う一つ一つの、考え方、受け止め方を、
論理で、切り替えていきます。 |
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どうせ、まだだろうと思って、余裕ぶっこいて、
→ちょっとゲームを、始めたところで、
→本格的にメイクを、直し始めたところで、
→クレープを買って、食べ始めたところで、
今回に限って、時間ピッタリに、
彼が、息をはずませて、やって来た。
「何だって今日だけ、遅刻しないのよっ!
いつもなら絶対、10分過ぎてから来るじゃん!」
今日こそは、待たせないぞと思って、
彼女のよろこぶ顔を、思い浮かべながらやって来た
彼にしてみれば、コレで怒られたら、
八つ当たり以外の、何物でも無いかもしれません。 |
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私たちはどうも、だまっていれば、
思考も手抜きになるように、出来ているのかも知れません。
いつの間にか、こうなって当たり前、ああなって当たり前。
これが出来て当たり前、これがやれて普通。
感情が決まる原因を、出来事=事実だと、
思ってしまいがちです。
でも、もしも事実で、感情が決まるのならば、
全ての人が、同じ事実を前にすれば、
同じ感情に、なるはずです。
「雨降りだから、嫌な気分」
雨を待ちこがれている人だって、たくさんいるでしょう。
「雨が降ったら、洗濯物が干せない」ですか?
それは、
「洗濯物が干せない」と言う“都合”でしょう。
同じ雨降りでも、洗濯物の無い日だったら、
別に困りは、しない事になります。
「彼と別れた。」「仕事をやめる事になった。」
全ての人が、こういった事実を前にして、
同じ感情になるのかと言えば、そうでは無いです。
「私に、女性としての魅力が、足りなかったからだ…」
と、取る人もいれば
「これでもっと良い、新しい彼と巡り会うチャンスが生まれた。」
と、取る人もいます。
「仕事が無くなって、私は社会人失格だ」
と、取る人もいれば
「これでもっと良い、仕事に就けるぞ!」
と、取る人もいます。
彼と、別れたがっている人も、
今の仕事を、やめたいと思っている人も、
世の中には、いくらでもいるでしょう。 |
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論理療法では、
結局、悩んでしまう時と言うのは、
事実が原因なのではなく、
その事実の、受け止め方のほうが原因であると考えます。
悩みの原因が、適切で無い事実の受け止め方なら、
受け止め方を変えれば、悩みも変わると考えるわけです。
そしてこの、受け止め方の、
原因になっているのが、
自分の、あるいは人から与えられた、
さまざまな思い込みです。 |
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論理療法ではこれを
A:Activating(出来事)
B:Belief(その受け取り方、観念)
C:Consequence(結果、結果起きる感情)と分けて考え
A出来事・事実 |
→C感情 に直結しているのではなく |
A出来事・事実 |
→B受け止め方・観念→ |
C感情 |
だと考えて「ABC理論」と言います。 |
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気がついてくれなかった、新しい服。
なぜここで、寂しい思いをするのかと言えば、
「新しい服には、気がついてくれるはずだ…」
と言う前提が、あるからでしょう。
あらかじめ「こうなるはずだ」…の前提があるからこそ、
それと違う結果になると、悲しい思いをするわけです。
論理療法では、この、
不適切で、論理的ではない受け取り方を、
「イラショナル・ビリーフ」
適切で論理的な受け取り方を
「ラショナル・ビリーフ」と、分けて考え、
非論理的・非合理的な、思い込みによる受け取り方を、
どうしたら、論理的・合理的で、
悩まなくてすむ、健康な受け取り方に、
変えていけるだろうか?と、考えて行きます。
こうしたビリーフが、形成されているなら、
形成された原因、元があったはずです。
論理療法はこの原因を、見つけては開放する、
いわゆる「マイナス思考から脱却する心理学」
「固定概念から自由になる心理学」だと思います。
(ただしユングさんのように、原因を過去の体験や、
潜在意識のような部分・形にまで、
遡って追求すると言う、意味ではありません。) |
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よく「あの人はマイナス思考だ」などと言いますが、
思い込みに基づく、
非論理的なビリーフが、基準になっていると、
同じ事実を前にしても、どんどん悪い方に考え、
悩んで行ってしまいます。 |
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その意味では、
論理療法はゲシュタルトとも、似ていますが、
ゲシュタルトがより、自由自在に視点を変え、
プラス思考に、焦点を当てる感じなら、
論理療法は、しなくてもいいはずの、
マイナス思考、思い込み、パターンなどを、
常識や慣習に、縛られずに、
改まって、論理で割り切って、
解消するような、考え方と思います。
使う手法の、違いと言うのはありますが、
考え方的な部分では、私はそんな風に思っています。
結果的に、論理療法では、
ユングさんの、無意識のような物は扱わずに、
徹底的に、まず事実に視点を当て、
固定概念や思い込みからの、
悩みの開放を、目指します。
だから論理療法による、心理カウンセリングは、
その過程では時には、クライアントさんに、
切り込んで行くような、やり取りも行う場合・部分があるので、
この辺が、来談者中心療法などに、比べると、
厳しい療法と言う、イメージにうつるようですが、
私自身は、持って行き方だと思っています。 |
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ただそれでも、ゲシュタルトと論理療法は、
本質的には、割と似た印象は受けます。 |
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一つ、ポイントがあります。
論理療法と言う、日本語の印象だと、
誤解されがちに、思うんですが…。
実は論理療法では、非論理的な事を、
全て完全に、徹底否定するものでは無いんです。
「雨降りだから、なんとなく嫌な気分だな…」
→これをひっくり返すと、こうなります。
「雨降りだけど、なんとなく楽しい気分だな♪」
→これは論理的な思考ではありません。
でも、その事によって
悩みや不都合が生じないのなら別に良いのです。
あくまでも、非論理的な物の考え方、
事実とは言えない、思い込みや固定概念によって、
悩みや不幸が生じる場合を、
論理療法は、問題視します。 |
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イラショナル・ビリーフ(非論理的・非合理的な思い込み)は
「○○せねばならない。」
「○○でなければならない。」
などの断定口調に多く、他にも非論理的に、
自分自身の価値を下げたり、卑下してしまったり、
意味や行動を、限定させるような場合と考えます。
そしてこのイラショナル・ビリーフ
(非論理的・非合理的な思い込み)は、
言われて見れば「なるほどな…」と思うかも知れませんが、
実に世の中に多いです。
特に子供のうちは親(保護者)の手の中になければ、
生きていけません。
「早く、ご飯を食べなさい。」
「もう寝なけりゃ、ダメじゃないの。」
「どうして○○ちゃんみたく、出来ないの?」
「忘れ物をしちゃ、だめじゃない。」
「仲良くしなけりゃ、だめじゃない。」
「そんな事じゃ、いい学校に入れないわよ。」
「将来いい会社に、いけないわよ。」
必然的に、親のビリーフによって、育てられます。 |
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これはある程度は、当たり前なんですよね。
最初、白紙状態の、子供の頃は、
教えてもらわなくては、わかりません。
最初から善悪などの、判断基準は無いんです。
でもこの時の、基準になるビリーフが、
親の感情論や、思い込みなどの、不適切な物だったら…?
そして社会に、出れば出たで、
また、たくさんの、ビリーフを言われます。
「なに、まだ彼氏がいないの?
ちょっと、おかしいんじゃない?」
(→彼氏の一人くらい、その歳ならいて当たり前でしょう?)
「ろくな人間じゃないな。
営業成績一つでだって、わかるよ。」
(→仕事の出来不出来で、人間性や人格までがわかるよ。)
「30代で独身なんて、人生の負け組みね。」
「主婦は楽だよね。何にもしなくていいんだから。」
「あんなセックスをしてくる彼は、
私の事は愛していないに違いない。」
「結局、成績が上がらない俺は、
どう考えても、営業の仕事には向いていない。」
「どうして私は、彼を愛せないんだろう?
私は悪い人間だ…」
「子供なんて、誰だって育てられるのに、
どうして私は、上手く出来ない?」
「ちっとも夫が、思いやってくれない。」
「いくら止めてといっても、彼が浮気をする。
彼は最低の人間だ。」
「夫が浮気を、止めてくれない。
私は浮気相手以下の、価値しかないんだ…。」
ノイローゼや、病気にまでなる人は、こういった思いで、
自分で自分を、がんじがらめにしてしまいます。 |
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論理療法では、以下のような事すら否定します。
「愛されなければならない。」
→愛されるに越した事は、無いかもしれない。
でも、愛が無くても、生きてはいける。
別に今、愛されていないからと言って、
それで生きる資格が、無くなるわけではない。
「人に迷惑をかけてはならない。」
→迷惑をかけないに、越した事は無い。
でも、実際には、あらゆる面で、
完全に、迷惑をかけないでいる事などは、不可能。
迷惑をかける事=悪い、などと言うビリーフを持っていたら、
怪我や病気をするたびに、自分を責めなければならない。
障害や持っていたり、介助・介護を必要とする人を、
悪い目で見なくては、ならなくなってしまう。 |
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よく占いを使いましょう。占いでわかりますよ。と言いながら、
一方では、占いに頼ってはならない。
占いを絶対視してはならない。と言いますよね。
時には占い師さんでさえ、この点についての区分けを、
不明瞭にしか、伝えて下さらない方もいるようですが、
それについては、例えば活用形で使う!
と言う意味で、理解する事が出来ます。
占いを使わないと不安。
占いが無いと決められない。と言うような、
「無いと不安。無いとダメ」
(あって当たり前)では無く、
占いを使うと安心、占いがあればより物事を考える、
決定する時の情報や、選択肢が広がる。と言う
「あればより安心。あればより便利。
あるに越した事は無い♪」
(ただし無くてもいい。無くて当たり前。)です。
「人に頼ってはならない」と言っている一方で
「人は助け合わなくては」と言われて
?????
これも、例えば
「〜した方がいい、するに越した事無い」と
「〜しなくてはならない。しないといけない」の
違いだと、理解する事は出来ます。 |
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知的・身体的障害を持つ方や、高齢の方は
「なぜ“普通の事”が出来ないのか?」
と言う事で、自分を責める事があります。
一方、それを支える、家族の側でも
「家族は支えて当たり前。
思いやりを持って、支えて上げなくてはいけない。」
と、これまた自分を無尽蔵に、
犠牲にして、しまいかねません。
「人に迷惑をかけてはいけない。」と言う、
一見、当たり前すぎるほどの、もっともらしい言葉も
「人に迷惑をかけなければ、生きて行く事が出来ない。」
人にとっては、トゲになってしまいます。
今は介助や、ボランティアと言う立場に、
とても積極的な考えや、行動で、
望んでくださる方が、増えて来ました。
でもこの「介助やボランティアをする。」と言う事は、
してもらう立場に、視点を変えれば
「迷惑をかける」行為以外の、何物でもありません。
あえて「迷惑と言う言葉」を、使うのであれば…。
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論理療法では、
時にこうした、今まで当たり前と、
思っていたような事にまで、踏み込みなおして、
「ちょっと待って…その前提、考え方って、
本当に事実に、基づいていますか?
同じ事実を、前にした時、
より悩んで、不幸になってしまうのは、
あなたのその、受け止め方のほうには、
原因はありませんか?」
と、問いかけます。
そして、こう言う思考、考え方、
受け取り方を変える事で、感情も変わり、
感情が変われば、最終的には行動も変わると考え、
固定概念や、思い込みから、
クライアントさんを解放する、心理学と思います。 |
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